苦行というと、どこか立派なもののように聞こえる。
つらいことに耐える。
楽な方へ流れない。
自分を甘やかさない。
そういうものには、たしかに人を引き締める力があると思う。
ただ、何でも行き過ぎると話は変わってくる。
苦しければ苦しいほどいいのかというと、たぶんそんなことはない。
仏教でも、ブッダは行き過ぎた苦行では届かなかったとされている。
身体を痛めつけるほど追い込んでも、それで悟れたわけではなかった。
極端な苦行を離れ、ちゃんと働けるところに戻った先で道が開けている。
苦しければ深まるわけではない、というのはここでも同じなんだと思う。
この話はけっこう大事だと思う。
苦しさそのものに価値があるわけではない、ということだからだ。
人はたしかに、少し足りないことで働くことがある。
少し飢えている。
少し上がある。
少し届かない。
そういうものがあるから、力が出ることはある。
でも、それが行き過ぎると話は別になる。
身体が弱りすぎる。
呼吸が浅くなる。
考えが狭くなる。
力を出すどころか、ただ縮こまる。
そうなってしまえば、それは修行というより、ただ自分を削っているだけになってしまう。
世の中には、ときどき苦しい方が偉い、つらい方が深い、みたいな空気がある。
でも、それはかなり雑だと思う。
苦しむことと、深まることは同じではない。
少しの不自由さは、人を鍛えることがある。
少しの不足は、感覚を澄ませることがある。
けれど、行き過ぎた欠乏は、人を育てるより先に弱らせる。
ここを一緒にしてしまうと、おかしくなる。
野口整体でも、ただ無理をかければいいわけではない。
身体が働ける余地があることが大事で、そこを越えてしまえば、整うどころか勢いをなくしてしまう。
だから、苦行の先に何があるのかといえば、必ずしも深まりがあるわけではない。
行き過ぎれば、あるのは消耗だけだと思う。
もちろん、楽ばかりしていて人が育つとも思わない。
何もかも満たされて、何も不足がなく、何の不自由もないとなれば、それはそれで人は鈍る。
だから難しい。
楽すぎてもだめだし、苦しすぎてもだめだ。
結局大事なのは、極端に行かないことなんだと思う。
少し足りない。
少し届かない。
でも、まだ働ける。
そのくらいのところに、人がいちばんよく力を出せる場所があるのかもしれない。
苦行をすれば深まるわけではない。
苦しければ偉いわけでもない。
けれど、少しの不足や不自由さが、人を目覚めさせることはある。
大事なのは、どこでそれが行き過ぎるかを見ることだと思う。
身体が縮こまり、呼吸が浅くなり、感覚が鈍ってきたら、それはもう違う。
そこまでいけば、深まるどころか、ただ無理をしているだけだ。
苦しさそのものを拝むのではなく、そこで自分がどう働いているかを見る。
その方が、ずっと本当のことに近いように思う。
飢え その2 〜苦行の先にあるもの〜
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