飢え その2 〜苦行の先にあるもの〜

苦行というと、どこか立派なもののように聞こえる。
 
つらいことに耐える。
楽な方へ流れない。
自分を甘やかさない。
そういうものには、たしかに人を引き締める力があると思う。
 
ただ、何でも行き過ぎると話は変わってくる。
苦しければ苦しいほどいいのかというと、たぶんそんなことはない。
 
仏教でも、ブッダは行き過ぎた苦行では届かなかったとされている。
身体を痛めつけるほど追い込んでも、それで悟れたわけではなかった。
極端な苦行を離れ、ちゃんと働けるところに戻った先で道が開けている。
苦しければ深まるわけではない、というのはここでも同じなんだと思う。
 
この話はけっこう大事だと思う。
苦しさそのものに価値があるわけではない、ということだからだ。
 
人はたしかに、少し足りないことで働くことがある。
少し飢えている。
少し上がある。
少し届かない。
そういうものがあるから、力が出ることはある。
 
でも、それが行き過ぎると話は別になる。
身体が弱りすぎる。
呼吸が浅くなる。
考えが狭くなる。
力を出すどころか、ただ縮こまる。
そうなってしまえば、それは修行というより、ただ自分を削っているだけになってしまう。
 
世の中には、ときどき苦しい方が偉い、つらい方が深い、みたいな空気がある。
でも、それはかなり雑だと思う。
苦しむことと、深まることは同じではない。
 
少しの不自由さは、人を鍛えることがある。
少しの不足は、感覚を澄ませることがある。
けれど、行き過ぎた欠乏は、人を育てるより先に弱らせる。
ここを一緒にしてしまうと、おかしくなる。
 
野口整体でも、ただ無理をかければいいわけではない。
身体が働ける余地があることが大事で、そこを越えてしまえば、整うどころか勢いをなくしてしまう。
 
だから、苦行の先に何があるのかといえば、必ずしも深まりがあるわけではない。
行き過ぎれば、あるのは消耗だけだと思う。
 
もちろん、楽ばかりしていて人が育つとも思わない。
何もかも満たされて、何も不足がなく、何の不自由もないとなれば、それはそれで人は鈍る。
だから難しい。
楽すぎてもだめだし、苦しすぎてもだめだ。
 
結局大事なのは、極端に行かないことなんだと思う。
少し足りない。
少し届かない。
でも、まだ働ける。
そのくらいのところに、人がいちばんよく力を出せる場所があるのかもしれない。
 
苦行をすれば深まるわけではない。
苦しければ偉いわけでもない。
けれど、少しの不足や不自由さが、人を目覚めさせることはある。
 
大事なのは、どこでそれが行き過ぎるかを見ることだと思う。
身体が縮こまり、呼吸が浅くなり、感覚が鈍ってきたら、それはもう違う。
そこまでいけば、深まるどころか、ただ無理をしているだけだ。
 
苦しさそのものを拝むのではなく、そこで自分がどう働いているかを見る。
その方が、ずっと本当のことに近いように思う。

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