※この記事には『教場Ⅲ』の内容に触れる部分があります。
未視聴の方はご注意ください。
教場Ⅲを見ていて、最後の風間公親の目が印象に残った。
白内障のように見えた、という人もいるかもしれないし、ただの外傷の表現として見た人もいるかもしれない。
もちろん、作中の流れとしては、風間の目の異変は十崎によって右目を刺されたことが大きなきっかけになっている。
だから、まずは単純に「傷の後遺症」と見るのが自然だと思う。
ただ、それだけでは終わらない感じもあった。
あの目は、ただ見えにくくなったというより、何かを抱えたまま濁っていったようにも見えた。
野口整体では、こういう変化を目だけの問題としては見ないことがある。
白内障についても、単に目が悪くなったというより、内臓や全身の働きとのつながりの中で見る考え方がある。
僕が教わった流れでは、白内障は脾臓の問題として見ることがあった。
ここでいう脾臓というのは、ただ臓器の名前としてだけではなく、入ってきたものを受け取り、消化し、自分の中に収めていく働きとして考えるとわかりやすい。
そう考えると、風間公親のあの目の濁りも、ただの視力の問題ではなく、処理しきれないものを抱えた身体の表れとして見えてくる。
遠野の死。
十崎との因縁。
自分の右目を失ったこと。
刑事としての終わり。
そういったものを、風間はちゃんと悲しんだり、怒ったり、吐き出したりしてきた感じがあまりしない。
むしろ、全部を自分の中で固めて、別の機能に変えてしまったように見える。
冷静に見える。
鋭く見抜く。
感情を表に出さない。
でも、それは回復した人の姿というより、傷を抱えたまま役割に変えた人の姿に近い。
だから、あの白く濁った目は、単に「見えない目」ではなく、現実をそのままでは飲み込めなくなった人の身体として見ることもできる。
見えなくなったというより、見たものを普通の形では処理できなくなった。
それでも生きなければならないから、規律に変える。
観察に変える。
選別に変える。
風間公親という人物は、そうやって教官になっていったように見える。
教場という作品は、警察学校の話ではあるけれど、ただの教育ドラマではないと思う。
人が傷を負って、それでも別の役割を生きる話でもある。
そう考えると、風間の目の濁りは、外傷の名残であると同時に、処理しきれない現実を抱え込んだ身体の象徴にも見えてくる。
もちろん、これは作品の中で明言された話ではない。
ただ、身体にはその人の生き方が出る。
抱えたもの。
飲み込めなかったもの。
まだ終わっていないもの。
そういうものが、目の濁りとして残ることもあるのではないか。
教場Ⅲのラストを見ながら、そんなことを思った。