主訴は答えではない

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久しぶりに、弟子のような子と患者さんの症状について話をすることがあった。

今見ている患者さんの中に、いつも何気なくいらしている方がいるという。
その方を見ていて、「この方は眠れていないのではないか」と気づいたそうだ。

お聞きすると、やはり「そうだ」と返答があった。

今までなぜ気がつかなかったのだろうと、その子は感じたようだった。

 

でも、それに気がついたことは、とても大切なことだと思った。

患者さんが主訴として言っている言葉だけでは、絶対に判断がつかないことがある。

痛みが出ている場所だけを見ていても、その奥にあるものは見えない。

 

身体に痛みが出ているとしても、『それ』だけを見ていると、本当の原因を見落とすことがある。

腰が痛いという訴えがあった時に、「骨盤が開いていますね」で終わってしまうことは多い。

もちろん、骨盤が開いているように見えることはある。

ただ、そこで終わってしまうと浅い。

 

考えないといけないのは、なぜ骨盤が開いたのかということだ。

日頃から食べすぎているからではないか。

眠れていないからではないか。

仕事の緊張が抜けていないからではないか。

そこまで観ないと、身体は見えてこない。

 

たとえば、食べすぎている方に「食べすぎないようにしてください」と言うだけでは足りない。

そんなもの、できればとうにやっているからだ。

 

なぜこの方は食べすぎてしまうのか。

そこを考えないといけない。

仕事でのストレスを解消するために食べているのか。

固まっている身体を緩めたいから食べてしまうのか。

発散できないものを、食べることで処理しているのか。

同じ食べすぎでも、奥にあるものは人によって違う。

 

患者さんの悩みは、言葉に出ている部分だけではない。

身体を見て、生活の話を聞いて、その奥にあるものを拾わなければならない。

「腰が痛い」と言われて腰だけを見る。

「眠れない」と言われて、そこで初めて睡眠の問題に気づく。

それでは遅い。

 

本来であれば、物を言わない赤ん坊や動物でも見られないといけないのだと思う。

赤ん坊は「ここが痛い」とは言わない。

動物も「最近眠れていません」とは言わない。

それでも、身体には出ている。

 

泣き方や寝方。

腹の張りや呼吸。

手足の冷えや背中の緊張。

そうしたものから、身体の状態を拾っていく。

言葉で言われなければ分からないようでは、整体師としては鈍い。

 

整体の開祖である野口晴哉は、患者が部屋に入ってきて五歩歩いている合間に判断がつかないといけない、というようなことを言ったと伝えられている。

それは、患者さんの話を聞かなくていいという意味ではない。

ただ、言葉になる前に身体にはすでに出ている。

 

歩き方には重心が出る。

目の動きには、休めているかどうかが出る。

呼吸や声の出方には、腹部や背中の緊張が出る。

座り方ひとつにも、身体がどこで支えているのかが出る。

 

患者さんの主訴は大切だ。

どこが痛いのか。

いつからつらいのか。

どうすると楽なのか。

そうした言葉を聞くことは当然必要になる。

 

ただ、主訴は答えではない。

身体を観るための入口である。

その入口で止まってしまうと、奥にあるものを見落とす。

 

今回、その子が「この方は眠れていないのでは」と気づいたことは、とても大きいことだと思った。

完璧にできているわけではないのかもしれない。

それでも、痛いところだけではなく、その奥にあるものを見ようとしている。

そこが痛いほど分かっているのなら、置いてきても安心だったのだと思った。

 

主訴は、答えではない。

身体を観る入口である。

言葉になる前に、身体にはすでに出ているものがある。

そこに気づけるかどうか。

そこに、整体師の鈍さも鋭さも出るのだと思う。

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