整体をしていると、こちらの状態がそのまま手に出る。
治そうとしすぎると、実(じつ)になる。
強くなる。
前に出る。
結果を急ぐ。
その手は、相手の身体に届いているようで、実は押しつけになっていることがある。
反対に、虚(きょ)になりすぎても整体にはならない。
抜けすぎる。
迷う。
相手に飲まれる。
待つことはできても、変化の場を作れない。
実では強すぎる。
虚では導けない。
その間に、沖(ちゅう)がある。
沖というのは、何もない状態ではない。
力が抜けているだけでもない。
満ちすぎず、抜けすぎず、変化が起こる余地がある状態。
そこに立てた時、身体は変わりやすい。
変えようとするより、変化が起きられる場所に立つ。
整体では、そこが大事なのだと思う。
腹部にも、それがある。
鳩尾は、虚(きょ)している方がいい。
臍下丹田には、実(じつ)がある方がいい。
その間にある胃のあたりは、実でも虚でもなく、沖(ちゅう)の状態がいい。
強すぎず、抜けすぎず、動ける余地がある。
身体のいい状態とは、全部が実になることではない。
全部が虚になることでもない。
必要なところに実があり、抜けるところは抜け、その間に沖がある。
これは、施術者も同じだと思う。
治そうとしすぎると、こちらが実になる。
結果を出そう。
変化を起こそう。
次につなげよう。
その気持ちが強くなりすぎると、身体を観る前に、自分の意図が前に出る。
相手の身体ではなく、自分の焦りを触っているような手になる。
仕事として続けていく以上、計算は必要だ。
先のことを考える。
流れを作る。
必要な準備をする。
それ自体が悪いわけではない。
ただ、その意識が施術の場に入りすぎると、手が濁る。
身体を観る前に、計算が立つ。
そうなると、整体ではなくなる。
だから、仕事のことを捨てるのではない。
仕事に食われないことだと思う。
計算はする。
でも、施術中には持ち込まない。
準備は整える。
でも、手には乗せない。
ここが難しい。
でも、ここを外すと整体は濁る。
整体師として大切なのは、実で勝ち取ることではないのかもしれない。
虚になって流されることでもない。
沖に立てる時間を、どれだけ保てるか。
相手の身体が変化できる状態に、自分がいられるか。
そこにかかっている気がする。
松江市の桑谷整体では、身体を無理に変えようとは考えていない。
痛いところを追いかけるだけでもない。
相手の身体が、どこで実になりすぎているのか。
どこで虚になりすぎているのか。
どこに沖があるのか。
そこを観る。
変化は、力で押し込むものではない。
こちらが弱すぎても起こらない。
実でもなく、虚でもなく。
沖に立つ。
身体が変わる時は、そこに静かな余地がある。