身体が欲しがるものは、頭で決められない

たまには整体的なお話をひとつ。

最近は忙しくて、いただきものを上げるだけになっているので、今日は山菜の話。

 

山菜の苦味は、本来なら毒である。

いきなり物騒だが、だいたい自然界は人間にそこまで親切ではない。

 

ただ、その苦味が必要になる時がある。

熊などの動物は、冬のあいだに溜め込んだものを抜くように、春になると木の芽や木の皮を食べるらしい。

もちろん、肝臓にいいから食べようとか、解毒のために食べようとか、そんなことを考えているわけではないだろう。

熊と話したことがないので、断言はできないが。

 

理屈より先に、身体の方が必要なものを選んでいる。

そういうことはあるのだと思う。

 

人間も、どうやら色々と溜め込む生き物である。

春になると、山菜の苦味を美味しく感じることがある。

苦いはずなのに、身体が欲しがる。

その時は、今の身体に合っているのだろう。

 

逆に、子どもは苦味を嫌がることが多い。

まだそういうものを必要としていないのかもしれない。

それなのに、ピーマンを細かく刻んで騙して食べさせる。

人類、余計な工夫だけは本当に熱心である。

 

苦味という毒は、時には有効である。

ただし、いつでも良いわけではない。

 

肝臓にいいらしい。

解毒になるらしい。

テレビでやっていた。

そういう理由で食べると、だいたい身体を置き去りにする。

 

美味しく感じるうちは食べればいい。

美味しくなくなったら、そこでやめる。

余っていても、身体が欲しがっていないなら、それはもう毒に近い。

 

旬だからいい、身体にいいらしいからいい、では少し雑である。

今の自分に合うかどうか。

身体が欲しがっているかどうか。

そのくらいで見た方が、よほど自然だと思う。

 

実家には、わらびは塩っぺと和えろ、という言い伝えがある。

その通りにすると、丼一杯でも食べられてしまう。

これはこれで危険である。

 

苦味は、身体に合えばうまい。

合わなくなれば、ただの負担になる。

山菜も健康法も、結局はそこで見ればいい。

なんでもほどほどがいいのだと思う。

 

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