修行の先には何もない

ブログ

野口整体には、活元運動というものがある。

体操のようでもあり、瞑想のようでもある。

自分の身体の内側から出てくる動きを、そのまま許していくようなものだと僕は感じている。

 

また、手の感覚を鍛えるものとして、合掌行気というものもある。

両手を合わせ、呼吸を通し、手の内側にある感覚を静かに観ていく。

 

昔の野口整体の修行は、かなり厳しかったと聞く。

活元運動や行気を、一晩中、あるいは二十四時間行うこともあったそうだ。

瞑想中や行気中にトイレへ行こうものなら、『集中できていない証拠だ』と稲妻の如く叱られたらしい。

今の感覚で聞くと、なかなか凄まじい。

 

そういう話を知っていたので、僕も仕事が終わってから、外が白んでくるまで活元運動や行気を行ったことが何度かある。

若い頃、売り上げがない時代、何もなす術を知らない時代、それを行うと何か起こるのではないかと思っていた。

だが、それをするしかなかった。

 

自分を極限状態にまで追い込めば、手の感覚が変わるのではないか。

身体の奥が開くのではないか。

そんな期待も、正直あった。

 

けれど、実際にやってみると、そこに特別な何かがあったわけではなかった。

外が白むまで行ったからといって、急に手が変わるわけでもない。

身体の感覚が劇的に変わるわけでもない。

何か不思議な力を得るわけでもない。

もちろん、僕の修行が足りなかっただけなのかもしれない。

それでも、少なくとも僕には『何かを得た』という感覚はなかった。

 

先日、野口健さんの話に触れた。

彼は、『頂上まで登ると何かある、何かあるはずだと思って何度も登ったけれど、何もなかった』というようなことを話していた。

僕は、その感覚が少しわかる気がした。

 

何かあると思って登る。

でも、登ってみると何もない。

ただ山頂があるだけで、急に自分が変わるわけでもない。

それでも、登ったことには意味がある。

何もなかったとわかるところまで、自分の身体を連れて行った。

そこに意味があるのだと思う。

 

合掌行気は、本来五分前後が適切だとされるらしい。

だから、長く行えばいいというものではない。

一晩中やったから深いわけでも、二十四時間やったから偉いわけでもない。

 

長ければ深い。

苦しければ正しい。

そう考え始めると、修行はすぐに変な方向へ行く。

それは修行ではなく、ただの我慢大会だ。

人間はすぐに苦しさを勲章にしたがる。

面倒な生き物である。

 

けれど、適切な時間で行うものと、あえて限界まで行ってみるものでは、身体に残るものが違う。

五分で整うものがある。

夜明けまで行って、ようやく『何もない』とわかるものもある。

どちらが上という話ではない。

身体を通してみないと、その違いはわからない。

 

物事には、知っていることと、行ったことがあることと、理解ったことがある。

この三つは似ているようで、まったく違う。

知っているだけでは、まだ身体を通っていない。

行ったことがある、には身体の記録が残る。

理解った、はその記録と知識が、自分の中でつながった時に起こるものなのだと思う。

 

整体も同じだと思う。

本を読めば、骨盤や背骨の知識は入る。

講義を聞けば、活元運動や行気という言葉も知ることができる。

けれど、人の身体に触れて、迷い、外し、また触れる。

その中で、少しずつ手の中に残っていくものがある。

それは知識ではない。

身体が通ってきた跡だ。

 

夜明けまで行ったところで、何もなかった。

でも、何もなかったところまで行った身体は残った。

それは成功体験ではない。

特別な力を得たという話でもない。

ただ、自分の身体で通ってきたという記録である。

 

知るだけでは、軽い。

行った身体には、跡が残る。

理解るのはその後だ。

整体の手は、たぶんそういう跡の積み重ねでできていく。

タイトルとURLをコピーしました