最近、合掌行気をあまりしていなかった。
忙しかったのもあるし、お盆を挟んで仕事のリズムが少し崩れていたのもあると思う。
施術はしている。手が動かないわけでもない。
でも、なんとなく散漫だった。
目の前の人を観ているようで、少し遠い。
整体そのものに飽きてきたのかな、とも思っていた。
今日、久しぶりに合掌行気をした。
といっても、一分か二分くらいだ。修行と言うには短すぎる。
それでも、その後の施術は明らかに違った。
目の前の人に、きちんと向き合えている感じがした。
そして面白かったのが、施術時間が短くなったことだ。
急いだわけではない。短くしようとも思っていない。ただ、余計なことをしなくて済んだ。
野口整体では、一つのところへ精神を集めることを「集注」と言う。
普通の「集中」と似ているけれど、僕には少し違って感じる。
集中は、他を切って一つを見る感じがする。
集注は、自分の注意をそこへ集めて注ぐ感じだ。
最近の僕は、施術をしていても、その集注が薄くなっていたのかもしれない。
そうなると、手数が増える。
『ここも触っておこう。もう少しやっておこう。念のため、こっちも見ておこう。』
そんな手が増えていく。
施術が長くなることが、必ずしも丁寧だとは限らない。
必要だから長いこともあるし、身体の変化を待つ時間が必要なこともある。
必要だから長いのと、分からないから長いのは違う。
集注がなければ、三十分やろうが一時間やろうが、ただ長く触っているだけになることもある。
逆に、目の前の人へきちんと集注できている時は、必要なところが見えやすい。
ここだと思って触れる。
身体が変われば、もういい。
そうすると、余計な手数が減る。
だから今日の施術が短かったのは、手を抜いたからではない。
施術時間を短くしようとしたわけでもない。
集注したら、結果として短くなっただけだ。
そう考えると、合掌行気は僕にとって鍛錬というより、ゼロ点合わせなのかもしれない。
何十分もやったわけではない。
一分か二分。それでも、散っていた注意を一度集め直すには十分だった。
整体に飽きていたのではない。
少し、ズレていただけなのかもしれない。
鍛錬というより、ゼロ点合わせ。
最近の僕には、それが足りていなかったらしい。
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