整体でいう本当の健康とは何か。
最近、そのことをよく考える。
痛みがなくなることは分かりやすい。
けれど、痛みが消えたことだけを健康としてしまうと、身体の奥で起きようとしている働きを見落としてしまう気がしている。
痛みは邪魔なものに見える。
でも、その痛みがあるから、人は自分の身体に目を向ける。
今まで無視してきた姿勢、動き方、呼吸、疲れの溜め方に気づき始める。
痛みだけを追い払うと、その場は楽になる。
けれど、身体が何を変えようとしていたのかを見ないまま終われば、また同じところで止まる。
大切なのは、痛みを消すことだけではない。
その痛みを通して、身体の中で何が動き始めようとしているのかを観ることだと思う。
鳥の雛が卵から孵る時の話がある。
雛は、内側から殻をつつく。
親鳥は、その気配を感じて、外側から殻をつつく。
内側から出ようとする力と、外側から助ける働きが合った時、雛は自分の力で殻を破って出てくる。
整体も、それに近いのだと思う。
こちらが全部の殻を割ってしまえば、その人が自分で出てくる力を奪ってしまう。
何もせずに見ているだけでも、出るきっかけを失うことがある。
必要なのは、代わりに殻を割ることではない。
その人の中にある力が働くタイミングを見て、必要な分だけ外から触れることだと思う。
ここで大切になるのが、包む力だと思う。
整体的な身体の見方でいう10種には、弱っているものや、まだ立てないものに自然と目が向く働きがある。
痛みや不安の中にいる人を見捨てず、一度包む。
外へ出る力がまだ表に出てこない時に、その人の中に残っている力が息を吹き返すまで待つことができる。
これは、本来とても大切な力だと思う。
人は、いつも強いわけではない。
痛みが強い時、不安が深い時、自分の感覚だけでは身体の出口が分からなくなることがある。
そういう時に、外から支えてくれる手があることは必要だ。
整体師の手も、そこにある。
けれど、その包む力が曲がることがある。
病人を、病人のままにしておきたい。
そんな働きが、人の中には出ることがあるのだと思う。
最初から悪意があるわけではない。
弱っている人を見捨てられない。
不安な人を包みたい。
まだ立てない人を支えたい。
その気持ち自体は、とても大切なものだと思う。
けれど、その包む力が曲がることがある。
相手が動き始めることよりも、自分の手の中にいてくれることを望んでしまう。
その人が自分の判断で外へ出ようとすることに、どこか不安を覚えてしまう。
そうなると、優しさは少しずつ形を変える。
支えているようで、立ち上がる力を止める。
包んでいるようで、外へ出る力を鈍らせる。
温かい毛布のように見えて、実は檻になっていることがある。
「まだ無理です」「まだ悪いです」「自分で判断しない方がいいです」
そう言われ続けると、人は自分の身体を信じにくくなる。
身体の内側から動き始めようとする感覚よりも、外から与えられる判断を待つようになる。
それでは、いつまで経っても自分の身体を自分のものとして扱えない。
包むことは必要だ。
支えることも必要だ。
けれど、包むことと囲うことは違う。
支えることと、依存させることも違う。
ここを間違えると、整体は静かに濁っていく。
良い面倒見は、相手の中にある力が働き始めることを邪魔しない。
弱い時は包み、まだ力が出ない時は支える。
けれど、動き始める時が来たら、その人の足で進むことを止めない。
自分が必要なくなっていくことを、きちんと喜べる。
悪い面倒見は、相手が動き始めることを不安に思う。
自分の役割がなくなることに耐えられない。
だから、心配の顔をして相手を止める。
優しさの顔をして、自立を鈍らせる。
整体は、患者さんを病人のまま囲う仕事ではない。
痛みや不安の中にある人を、いつまでも「悪い人」として扱い続ける仕事でもない。
身体の中に残っている力が、もう一度働き始めるようにすること。
その人が、自分の身体を信じて動き出せるようにすること。
そこが大切なのだと思う。
雛が、自分の力で殻を破るように。
人の身体にも、自分で外へ出ようとする力がある。
整体師の仕事は、その力を奪うことではない。
その力が働くタイミングを見て、必要な分だけ外からつつくことだと思う。
本当の健康は、誰かにずっと支えられることではない。
自分の中にある力が働き始めること。
痛みや不安をきっかけに、身体が次の動きを受け入れ始めること。
その人が、自分の身体をもう一度信じて歩き出せること。
病人を、病人のままにしない。
包むことと、囲うことを間違えない。
桑谷整体では、そこを大切にしていきたい。